村上春樹さんの著書「女のいない男たち」から、【ドライブ・マイ・カー】を読みました。
自分と他人を分けるもの そして正常と病の曖昧さ
人との関係は、私たちを大いに悩ませるものの一つでしょう。
私とあなたは違う。感じ方も、考え方も、生き方も。
相手のことが理解できないと苦しむとき、もしかすると私たちは、相手の中にある私を理解できていない、見えていないということではないのか?
この本を読み進めるうちに、そう思いました。
私自身の内面を深く見つめ直すとき、私はあなたのことをもう少しだけ理解できるのかもしれません。
主人公の家福は、亡き妻の何が見えていなかったのか?
人との関係、特に近しいパートナーとの関係。
パートナーの中にあるー私自身ー。パートナーの中にあるーパートナー自身ー。
病んではじめてその臓器の存在を知るように、私たちは傷んではじめてその存在を知ることがあるのでしょう。
家福の妻が惹かれ、求めたものに考えを至らせるとき、複雑で、境界の曖昧な私と他者との全体としての善い関係が続くことを祈らずにはいられません。
私たちはどこへ向かっているのか
私たちは人生において、否応なく常に動き、後退していると感じるときでさえ、進んでいるのかもしれません。
私という入れものから出て、また戻るとき、私も、私という入れものも、以前のそれではないということなのです。
「ドライブ・マイ・カー」を読了後、なぜか以前に読んだ氏の長編小説「ねじまき鳥クロニクル 第3部 鳥刺し男編」を思い出しました。主人公が、井戸の中で動けなくなり、水没の危機に晒されている場面での一文です。
僕は死んでいこうとしていた。この世界に生きているほかのすべての人たちと同じように。
ハルキストではなくても「何か」を感じたり考えたりしたい方に、お勧めの短編小説です。
西島秀俊さんが主演の映画も見たいですね。